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5月15日 第23回建築視察会

2021-05-15
5月15日 第23回建築視察会

清家清邸 約40年ぶりに訪れました

ひっそりと建っていました。
大田区雪谷です。
今は文化庁から登録有形文化財の指定を受けています。
1954年完成ですから、私より年配になります。


鯉のぼりがあるので、お孫さんがいらっしゃるのでしょう。
約40年前、20代の建築青年だった私が、清家先生にお手紙を出して、返事をお頂いて、伺いました。
そして、有名な「私の家」を見学させていただきました。
扉のないトイレや移動畳など、それまで雑誌でしか見れなかったものが、今、目の前にある感動で、興奮したものです。

大木の前で、清家先生とお茶を頂いた事を昨日のように覚えています。
そして植田実さんという写真家の方がいらしていて、お茶をご一緒できたことは光栄でした。
あの時も、この建築は将来どうなっていくんでしょう?残したいですね?と聞いた記憶があります。
若かりし私はこの「私の家」のトイに葉っぱが詰まっていたのがわかったので、屋根によじ登ってその葉っぱを取ったものでした。
清家先生は「危ないから」と制止をされましたが、御恩返しに何かしたいと思ったのでしょう。
当時、そんなことくらいしかできない、思いつかない幼い自分でした。

あれから40年ですが、この名建築は残っています。
今は使われてはいない様子でしたが、お庭も広く、もったいないです。
自分もこの建築のように、恥じないように後世に何が残せるのか?
スケッチしながら、感慨深い気持ちになりました。

帰り際、窓から顔を出された清家先生の息子さんから「あまり人の家の中見ないで」と釘をさされましたが。笑



バリ島にて、戸建てPJリモート監理で施工中

2021-05-14
バリ島にて、戸建てPJリモート監理で施工中

コロナ禍において昨年春、完成出来た在デンパサール日本国総領事館に続き、今違う場所にて高級戸建て計画が施工中です。
コロナ禍前からの計画であり、すでにあった建物を解体したという経緯もあり、今更止めるわけにもいかず、
まさかこんなにひどい状況になるとは思えずに今に至っています。

平屋の計画なのでもう上棟し、これから仕上げ工事に入っていく段階です。
リモート監理です。
写真や動画だけでの監理しかできませんが、それでもなんとかいい感じに仕上がっているのはないか、と思っています。

この計画はプールがあり、サロンがあり、ダイニングがあり、メイド室やドライバーさんの部屋やガードマン室など、いろんな部屋があり、
まったく日本とは違っています。
設計方法は日本のようにカタログもないし、すべてが一品生産の建築計画です。
だから面白いのですが、期待以上の時もあればそれ以下の時もある。
造られる過程はまるで50年前の日本のようなイメージでしょうか? 
わくわくしながら建物が出来上がっていくという感覚は今の日本で感じることが難しい。

しかしYKKやダイケンやダイキンなど、さすがはジャパンブランドで、精度は高い。
中国製は安いが頻繁に壊れます。
重要な部分は日本ブランドで作られます。
ですからコストも多少、高くなります。
それでも、完成してからのメンテや安心感を考えると、ジャパンブランドの方が良いという判断がクライアント側にあります。

日本人とは?日本気質とは? 考えさせられます。
正直で嘘はつかず、約束は守る。
私にとっては当たり前のことですが、世界では必ずしもそうではないようです。
当たり前だと思っていたことが実は他者に感動を与えていた事だったりする。


建築は面白い

久しぶりに楽しめる

まさに

ザ・ケンチク



第22回 建築視察会4月24日

2021-04-24
第22回建築視察会

またまた横浜です。再再度小牧君リコメンドの場所。
ランドマークタワーに始まり横浜美術館、関内に移動し、旧横浜市役所(村野藤吾)、中央病院(山田守)マークスビル(レイモンド)マルタン本社(磯崎新)。
終わってお決まりの四五六采館にて一杯。
もう横浜は十分満喫しました。

ー青野昌浩展ー「土の旅」

2021-04-19
ー青野昌浩展ー「土の旅」

4/19錦糸町のT不動産での打ち合わせの時でした。
その途中、担当者さんが
「今日、青野さんの個展の最終日ですよ」
その業者さんは京橋に画廊を経営していらして、本日15時で閉館と聞いて、大急ぎで京橋に向かいました。
来訪者名簿に記帳したら、私の名前の上に懐かしい名前が多く書いてありました。
すぐ上には「中松学」とありました。

青野さんのお話を聞いてるうちに、感動して、画伯に転身された青野さんとの記念に一枚購入させていただきました。
とっても味のある風景画です。
人柄が表れています。

こうして青野さんとも偶然にお会いすることが出来、すごいエネルギーを頂きました。
それにしても青野さん元気すぎます。
私にとっては、ゴルフ好きのもとスターツの副社長というイメージが強くて、今は80歳にして、画伯です。


お金があるから元気なのか?株の配当だけで生活できるから元気なのではないはずです。
もともとの生命力が強いのだと思います。

青野さんの一番の思い出は、私が29歳頃で、初めての地鎮祭でのことでした。
地鎮行事での設計者としてのカマのやり方を間違えてしまい、式が終わった後に、鋭い目線で「うちのやり方覚えてよ!」ときつくおっしゃられ、中途採用だった私は怖くて体が固まりました。
でも、優しい人柄で、その後のフォローがあって頑張るぞ!という空気感にさせてくれます。
1年に一度の決起大会でのスローガンでの青野さんの言葉「センス・バランス・気配り」はいまだ私の社員教育上での基本精神です。

-還暦における私なりの気持ちにおける終活にひと段落-

2021-04-08
-還暦における私なりの気持ちにおける終活にひと段落-

今年、還暦を迎える年になり、今までの人生における総決算というと大げさですが、一つの節目を迎えたい。
いや今そうしないと手遅れになるかもしれない。
そんな思いから、恩人や恩師に一言「ありがとうございました。今こうしていられる自分はあなたのおかげです」そんな思いを伝えたい。

私は昨年3月、高血圧で、少し具合が悪くなりました。
脳梗塞で、ほんの少し危ない状況になってしまいました。
おかげ様で、今は薬でだいぶ落ち着いていますが、一生薬を飲み続ける体になってしまいました。

私の還暦の誕生日にスターツ現職のBさんから、今一番会いたい人は?と聞かれたので、関戸さんと答えました。
その次の瞬間、Bさんはすぐに関戸さんに電話をかけられ、何の気持ちの準備もできないまま、いきなりお話することになり、そのいきおいで京橋旬味市場で食事する運びになりました。

14年前、スターツを退社するとき、大勢の方にご迷惑をおかけしました。
とりわけ心残りだったのは、関戸さんにきちんとご挨拶ができなかったことです。
あの時は精神的におかしかった。
涙ばっかりが出てしまい、人とお話ができる状態ではありませんでした。躁鬱状態だったと思います。
関戸さんからも「曽我君ノイローゼだったよ」と言われましたが、ほんとにそうだったと思います。
退社することに「申し訳ない」と思う気持ちが強くて、退職届を提出したのちの半年間ずっと会うことを避けていました。

それから14年が経ち、その間二度ほど、三川さん、奥山君の葬儀の席で目を合わせましたが、とてもお話できる雰囲気ではなく、今日に至ってしまいました。
この度、コロナ禍ですが、関戸さんとマスク会食ができたことに感謝します。
思い起こせば恥ずかしい思い出ばかりが浮かんできます。
そんな思いを手紙に書いてお渡しさせていただきました。
今、少しだけ胸のつかえがとれた気がします。

関戸さんからは「良く生き残られたね」と言われましたが、本当に奇跡だとしか言いようがありません。
もう終わりに近づいていると思っていた自分に『喝』を入れられた気がしました。
72歳でも勢力的に活動されている関戸さんを見習い、これからも、もう少しだけ頑張らないといけないなぁ、とそう思える一生忘れられない日になりました。


2021.4.8
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