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市川2計画 完成しました

2018-08-24

市川2計画 完成しました

久しぶりの手ごたえ、やり応えのあるお仕事に恵まれました。

市川駅から徒歩5分くらいのすばらしい場所。あえて難を言うなら、線路真横ということ。遮音と、電車のスピードでも視認できるデザインでなければ!

収益性重視マンションのデザインの鉄則「ローコストでハイパフォーマンス」。この道で、すでに35年のキャリアです。笑

武者小路、いわく「五意達者」つまり私にとって「この道より我を活かす道無し」・ローコストデザインは手間がかかります・「面倒なことから逃げるな」である。

総武線側に対して、壁はコンクリート打ち放しにしました。開口部は正方形に統一しました。それだけでも、電車から見ると、一瞬「ハァ!」とします。

いかに目にとまるようなデザインにするか?が勝負です。

相田みつを美術館に行ってきました

2018-08-17
8月15日 終戦記念日です。内心ではいつも敗戦の日であると思っています。8月になるとお決まりの広島・長崎・沖縄・東京大空襲、等戦争の悲惨さをTVで放送されます。気持ちが、暗くなります。歴史に「もし」はありませんが、負けていなければ、いやもっとうまく負けていればこんな悲劇は起きなかったのに!とくやまれます。そんな日だからこそ、明るく銀座にでも、ぶら散歩に、相田みつを美術館に行ってきました。
入場してすぐ正面に飾ってあった相田みつをさんの書「柔道の基本は受身 受身とは投げ飛ばされる練習 人の前で叩きつけられる練習 人の前でころぶ練習 人の前で負ける練習です。つまり、人の前で失敗をしたり 恥をさらす練習です。自分のカッコの悪さを多くの人の前でぶざまにさらけ出す練習それが受身です。」
先の大戦時、もし日本が受身を学んでいれば、もっと上手に負けられたと思います。こんなに大勢が死なずに済んだと思います。
そんな思いの中、ミュージアムショップの受付で、「今日は青柳(美術館取締役)さんいらっしゃいませよんね?」と気軽にお声をかけてみたら、女性職員さんが「はい今すぐお呼びいたします」と速攻で裏のほうへ行かれた。
いやお仕事中だし、私も今日は普段着で来ているし、お呼びするまででもなく、先日、送っていただいた「とわ」のお礼だけ伝えていただければ!と思っているうちに、すぐに青柳さんがおいでになられた。お盆の15日にお仕事をしている気持ちが私にはわからず、だいぶ失礼だったかもしれない。
だいぶ古い話になるが、昭和63年暮れに昭和天皇が崩御される前に、中途採用試験のためにスターツに面談にいった。その時の人事が青柳さんだった。当時バブルでどこの会社も人が足りない。売り手市場だった。
入社するまでは、関戸さん含め上司の方達と旬身市場で食事をご馳走になったり、高級なおもてなしを受けた。その後村石会長(当時社長)と面談し、年が明けて1月10日に入社したときはすでに平成になっていた。村石さんとの面談では雑談だけでしたが、心の中では「もうここに入社しなきゃ!この人は裏切れない。明るくて人徳の塊みたいな存在だった」一歩外に出ると世の中自粛ムードでいっぱいだった。
あの時の最初の人事の面談で、青柳さんがいった「うちはそんなに残業のない会社だから、同じ新潟県出身だし・・・親近感があった」。それが初入社した初日から、終電帰りの連続で、青柳さんにだまされた感があったがしかし今は感謝しかありません。あの時、正直に、「入社すると間違いなく毎日終電になりますね」といわれていたら、断っていたに違いない。そうしたら今の私はいない。
青柳さんから澄和futurist賞は、津幡修一さんご夫婦、と教えてもらった。
私の住んでいる、高根公団の旧公団建物郡も、おそらく彼のデザインであると信じています。要所要所に、コルビジェのデザインが見え隠れしていました。
当時、デザインを使いまわししていたと現URの方から聞きましたので。津幡さんの本の中にも書いてありました。
大学の授業でも、高根公団の説明がありました。かなり初期のデザインで、山を削って、平らにして設計したそうです。その山を削って設計した罪悪感がきっと、心の中にあったのではないでしょうか?老後、家庭菜園で自給自足の生活を送ることになります。
私も見習って、老後は家庭菜園に熱中しようと、今チャレンジ中です

LEO FIOREGALO印内 完成

2018-06-18
LEO FIOREGALO印内 完成  作品集にアップさせました
開発申請から約2年がかりで、設計した建物がついに完成です
前面道路から50mほど下がった位置にある建物です。
駅徒歩1分の土地なのですが、道路からではほとんど目立たないので、一番目立つ、建物の角に、ポイントになる場所に
彫刻を設置しました。
彫刻の作者は20年の付き合いになる押山さんです
もう10作品ほど製作していただいたかもしれません
彫刻だけではなく、あるときは特徴のある印象的な手すりだったりもしました
鍛造といい、鉄を叩いたり、ひっぱったり、ねじったり、鉄を扱う専門家です
久しぶりに、お会いすると、お互い、ふけたな~と感じます
この彫刻は「サイセイ」というテーマです。再生・祭生・彩生
あるきっかけ(たとえば地震とか、家族を失うとか、子供ができたり)を経験すると、人生の意味が変ってきます
人間は、常に変らないといけない生き物です。生命の強さとは、常に変っていくことに対応できるもののみが残っていく。
自然の摂理です。
環境も同じでしょう。
いつまでも昔のままといのも否定はしませんが、
文化はつないでいかないといけないものだし、しかし、現代においてなお、必要とされる要素になるように常に変化していかないと、それに対応していかないと、次の世代には何も残せないのではないでしょうか?
人も同じ。社員も同じ。会社も同じ。未だに解らないことが山ほどあるが、難しい問題や、どうにもならないことに直面し、解決していくことで、経験を重ね、問題を乗り越え、成長していく。誰かに伝えていける。
 
 
 

いよいよ始まります 船橋駅前計画

2018-06-18
来年5月オープンに向けいよいよ工事が始まりました
地鎮祭を終え、いよいよ杭の着工です
船橋駅前は再開発中で、道路も広くなり、どんどん発展していっています
オールテナントビルの計画です
完成すると、さぞかし、にぎやかな町並みになることでしょう。
駅からも良く見え、線路からも良く見えるので、ロケーション的には、きっと建物は看板だらけになることでしょう
仕方ありません。 外観が看板だらけになるのはこういうテナントビルの宿命です
隣地には、新建築昨年10月号にも登場したインマヌエル教会が建っています。アルテック室伏次郎さん設計です。
 
確か、私が最初に師事した、木村伝先生の後輩だったという記憶があります。
大先生に負けないように、いい建築にしていこうと思います。
昨年春に完成したレオセントラルスクエアに続く第2棟目の9階建て約35mの高さになる大型テナントビルになります。

バリにてインドネシア国交樹立60周年記念パーティー参加

2018-05-04
 
バリにてインドネシア国交樹立60周年記念パーティー参加させて頂きました
友人の紹介で、今、海外のお仕事を手伝わせていただいております
そのお仕事のご縁で、日本との国交樹立60周年記念パーティーに参加させていただく事になりました
おごそかで、なごやかな、パーティーでした
インドネシアは大変な、親日国です
第二次世界大戦のときもABCD包囲網によって石油の供給を絶たれ、インドネシアに石油供給の活路を、見出し戦争を起こし当時の宗主国オランダと戦い、350年も続いたオランダの植民地からの開放をとげました、さらに35年前のオイルショックの時も、インドネシアからの石油の供給により、石油の安定が計られました。
TVでよく見るデビ婦人が、インドネシア初代スカルノ大統領の第3夫人でることはあまり日本では報じられていません。
スカルノさんは、今でも ブン・カルノと呼ばれ、建国の父と呼ばれています
お札にものっています
海外PJは、もちろん私にとっては、初めてのことで、毎回行くたびに夜、「孤独」を感じています。
夜になると、本当に静かで、カエルの鳴き声しか聞こえません。
ホテルの室内には、たまに蚊も飛んでいるし、ヤモリもいたりして、ドキッ!とします
子供の頃もそうだったなぁと遠い昔を思い出します
最近ようやく慣れてきた感じがします。
時間に厳しい日本感覚のほうがおかしいのかもしれません。
幸せの基準が違うのだと思います
バリはヒンズー教徒が多いそうですが、どこに行っても、神様を感じます。町中お寺だらけです
お供え物は半端ではなく、そこかしこと飾られています。
「食べて、祈って、恋をしての」まさにジュリアロバーツ主演の映画のような国です。
にも関わらず、先週、発生したスラバヤでの2日連続でのテロには驚きました
平和ボケした日本にいると、テロは外国だけの事件のように思えますが、オウム事件もテロだったわけだし、きっと日本人はイヤな事は忘れやすい性格なのでしょう。
しかし、ここインドネシアはイヤな昔のこともきちんと覚えてくれています
学校で、しっかり、日本語の授業もあるし、まっすぐな歴史(現代史)も教えています。小中高の制度もまったく日本と同じ
です。ひょっとすると、日本を参考にしているのでは?と感じたりもします
日本の影響や関係を表すものとして、インドネシアが独立宣言をした証を偶然にも先週、靖国神社の遊就館で発見しました
日本の年号の皇紀で、独立宣言文を作成していました。「17-08-05」とサインされています
調べてみたら、今年、皇紀2678年でした。
いかに日本が独立に協力したかが、わかります。
8月15日が終戦記念日です、その2日後に立ち上がったのです
第二次世界大戦終結から、始まった、インドネシアの独立戦争では、ペタと呼ばれるインドネシア軍がイギリスやオランダと戦い多くの犠牲者を出しました。日本は敗戦したにも関わらずなぜかそこに日本人もインドネシアに残って戦って約1000人も亡くなった歴史があるなんて、私は学校ではまったく教わっていませんでした。皇紀のこともまったく知りませんでした。
亡くなった英霊達も、終戦後、日本に帰れば、奥さんや子供とも会えたのに!
私も、絶対に、クライアントから、日本の設計者を入れて良かった!とここで亡くなった先人達に恥じない仕事で見返してやろう。
ここで、亡くなった人達を思うと、奉仕の精神がいかに大切か?何のために人は生きているのか?と自分に投げかけられている気がします。
私の座右の銘である。「ARCHITECT AS SERVANT
ケビンローチという建築家の言葉で、「建築家は社会の奉仕者である」、という意味です。
きっとこういう思いは万国共通なのでしょう。
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