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バリにてインドネシア国交樹立60周年記念パーティー参加

2018-05-04
 
バリにてインドネシア国交樹立60周年記念パーティー参加させて頂きました
友人の紹介で、今、海外のお仕事を手伝わせていただいております
そのお仕事のご縁で、日本との国交樹立60周年記念パーティーに参加させていただく事になりました
おごそかで、なごやかな、パーティーでした
インドネシアは大変な、親日国です
第二次世界大戦のときもABCD包囲網によって石油の供給を絶たれ、インドネシアに石油供給の活路を、見出し戦争を起こし当時の宗主国オランダと戦い、350年も続いたオランダの植民地からの開放をとげました、さらに35年前のオイルショックの時も、インドネシアからの石油の供給により、石油の安定が計られました。
TVでよく見るデビ婦人が、インドネシア初代スカルノ大統領の第3夫人でることはあまり日本では報じられていません。
スカルノさんは、今でも ブン・カルノと呼ばれ、建国の父と呼ばれています
お札にものっています
海外PJは、もちろん私にとっては、初めてのことで、毎回行くたびに夜、「孤独」を感じています。
夜になると、本当に静かで、カエルの鳴き声しか聞こえません。
ホテルの室内には、たまに蚊も飛んでいるし、ヤモリもいたりして、ドキッ!とします
子供の頃もそうだったなぁと遠い昔を思い出します
最近ようやく慣れてきた感じがします。
時間に厳しい日本感覚のほうがおかしいのかもしれません。
幸せの基準が違うのだと思います
バリはヒンズー教徒が多いそうですが、どこに行っても、神様を感じます。町中お寺だらけです
お供え物は半端ではなく、そこかしこと飾られています。
「食べて、祈って、恋をしての」まさにジュリアロバーツ主演の映画のような国です。
にも関わらず、先週、発生したスラバヤでの2日連続でのテロには驚きました
平和ボケした日本にいると、テロは外国だけの事件のように思えますが、オウム事件もテロだったわけだし、きっと日本人はイヤな事は忘れやすい性格なのでしょう。
しかし、ここインドネシアはイヤな昔のこともきちんと覚えてくれています
学校で、しっかり、日本語の授業もあるし、まっすぐな歴史(現代史)も教えています。小中高の制度もまったく日本と同じ
です。ひょっとすると、日本を参考にしているのでは?と感じたりもします
日本の影響や関係を表すものとして、インドネシアが独立宣言をした証を偶然にも先週、靖国神社の遊就館で発見しました
日本の年号の皇紀で、独立宣言文を作成していました。「17-08-05」とサインされています
調べてみたら、今年、皇紀2678年でした。
いかに日本が独立に協力したかが、わかります。
8月15日が終戦記念日です、その2日後に立ち上がったのです
第二次世界大戦終結から、始まった、インドネシアの独立戦争では、ペタと呼ばれるインドネシア軍がイギリスやオランダと戦い多くの犠牲者を出しました。日本は敗戦したにも関わらずなぜかそこに日本人もインドネシアに残って戦って約1000人も亡くなった歴史があるなんて、私は学校ではまったく教わっていませんでした。皇紀のこともまったく知りませんでした。
亡くなった英霊達も、終戦後、日本に帰れば、奥さんや子供とも会えたのに!
私も、絶対に、クライアントから、日本の設計者を入れて良かった!とここで亡くなった先人達に恥じない仕事で見返してやろう。
ここで、亡くなった人達を思うと、奉仕の精神がいかに大切か?何のために人は生きているのか?と自分に投げかけられている気がします。
私の座右の銘である。「ARCHITECT AS SERVANT
ケビンローチという建築家の言葉で、「建築家は社会の奉仕者である」、という意味です。
きっとこういう思いは万国共通なのでしょう。

昔の自分から見えるもの

2018-05-04
 
秋に事務所の引越しがあるので、整理整頓していたら、懐かしい写真が出てきました
写っている先輩方の承諾は得ていないので、勝手に載せることになってしまいましたが、ご勘弁願います
おそらく30年前の写真です
まだ、木村建築設計事務所に在籍中での社員旅行での写真です。
場所はハワイ島です。
当時、先生の別荘があって、2回ほど行かせていただきました
世の中、バブルで、良き時代でした。
旅行から帰省の翌日に、アロハ航空243便事故が起きたのを覚えております。あと一日遅れていたら・・・・
写真をスマホで撮って載せましたので、画像があらくなっていますが、紛れも無く27歳の自分です。若い自分の姿を見て、今を反省するしかありません。あのときの建築青年はどこへ? ハングリー精神はどこへ? 世の中をなめていた頃の自分です。生きることへの不安など微塵も無く、自信に満ち溢れていた頃の元気な若造です。他人の目など気にしていなかったような気がします。
先生からはどう見えていたのか? 写っていたのか? 生きていたら伺ってみたいものであります。https://sogatoru.exblog.jp/15408669/
反省しきりの若造時代ですが、反面教師でもあり、若さって最高の武器であり、可能性のかたまりでした。
毎日、のり弁、しゃけ弁、インスタントのチャルメラでした。チャルメラに一個生卵を入れるのが最高の贅沢でした。衣食住の面では、だいぶ、ひもじい思いはしましたが、大きな夢があったので、心は豊かだったと思います。
二度とあの頃の生活には戻りたくは無いですが、愉快で、懐かしいものです。
木村伝先生とのツーショット、大切な思い出です。
おそらく先生が今の私と同じ頃だったと思います。
せっかく、ハワイに連れて行ってもらったにも関わらずその後、スターツへと転職したのでした。
恩知らずの若造でした。
今、私の長男がちょうど27歳。私とはまったく違う土俵にいます。
幸せってなんなのでしょう?
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